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■小説 上原半兵衛剣客列伝 外伝其之一 武之介一番勝負!

「すっかり遅くなってしまったな」
 武之介は、夜道を急いだ。
 湯島に住んでいる半兵衛の知り合いが病を得たということで、半兵衛の名代で、見舞いの品を届けに行った帰りだった。
 病のはずの知り合いは、ぴんぴんしていた。病だったのは彼の飼い猫で、それももう治ったという。
 だからと言って、持参した見舞いの品を持ち帰るわけにもいかないから、それを置いて早々に辞去しようとしたのだが、
「まあ、まあ、折角来たんだ。ゆっくりして行きなされ」
 引き止められた。
 夕食を勧められ、強くもない酒を飲まされ、老人の際限のない世間話に付き合わされた挙句、
「今日はもう遅いから、泊まって行かれては……?」
「いえっ、戻ることになっておりますから」
 やっとのことで辞去してきたのが、早や初更。とっぷりと、日も暮れていた。
 昌平橋を渡り、八辻ヶ原を過ぎた辺りで、足音に気が付いた。
 はじめは、気にとめていなかった。夜の柳原は、昼間の喧騒が嘘のようにひっそりと寂しいが、この時刻、人通りがまったくないわけではないからだ。
 しかし……
 ひたひた、ひたひた。
 それは、一定の間隔を置いて、武之介の後を確かについてくる。
 思わず武之介は、足を速めた。
 ひたひた、ひたひた。
 心なしか、付いて来る足音も、速くなったような気がする。
 こういう時は、振り向いてはいけない。うっかり化け物と顔を合わせると、取り殺されてしまうのだと、遠い昔、誰かに聞いた。
 履き物を片方、その場に脱ぎ捨てて歩き続ければ、助かるとも聞いた。
 翌朝、その場に戻ってみても、脱ぎ捨てた履き物は決して見つからないそうだ。化け物が、身代わりに持っていってしまうのだろう。
 本当だろうか?
 武之介は、自分が片足裸足で歩いている姿を想像した。
 情けないぞ、武之介。武士たるものが、幼子のように化け物などと……
 ひたひた、ひたひた。
 足音は、続いている。背中に、突き刺さるような殺気を感じる。
 とうとう武之介は、そろりと草履を片方脱いで、その場に残した。
「だ・ん・な」
「うわあぁぁっ!」
 武之介は飛び上がり、一間ほどもすっとんだ。
「なんだい、え? 人を、化け物みたいによ」
「な、なんだ。おあいさん。驚かさないでくださいよ」
「武の旦那も、変わったお人だの。草履を片っぽ、落として歩くなんてさぁ」
「えっ、いや、これは……」
 武之介が狼狽する様がおかしかったのか、あいは、けらけらと笑った。
「おあいさんこそ、こんな時刻に、お一人で、どうしたんです?」
「あたしのうちは、すぐそこだから」
「え……?」
 折りしも、柳森稲荷の前に差し掛かったところ。
 まさか、まさか、狐があいさんに化けているんじゃないだろうな。
 一度は静まりかかった心の臓が、再び早鐘のように打ち始める。
「どうしたのさ、そわそわして」
「………」
 ようやく、気が付いた。
 この、嫌な感じは、化け物なんかじゃない。あの足音も、一度はあいのものだったのだと思ったが、まだ続いている。  ぱっと振り返った。


 浪人者が、三人。
 武之介は、その顔に、覚えがあった。
 あの時……そう、半兵衛師匠が柏木弥之介のつもりで、それとは知らず、当の本人の前で大立ち回りをしてのけた時の悪浪人だ。
 顔を合わせようが、合わせまいが、最初から取り殺してくれようと思っているあたり、化け物よりたちが悪い。
 武之介が誰何(すいか)する間もなく、浪人達は抜刀した。月明かりに白刃が、ぼうと光る。
「女も一緒とは、都合がいい」
「卑怯じゃ、ありませんか」
 半兵衛も、周庵もいないところを狙うなんて、という意味だ。我ながら、ぱっとしない事を言うものだと思った。
 とにもかくにも、こういう時は……逃げるに限る。
 三十六計逃げるにしかずという諺もあるくらいで、引くべきときに引くのは武芸者としての大事な資質。決して恥ずべき事ではないと教えてくれたのは、他ならぬ半兵衛で、世の中のすべての人がそう思ってくれるかどうかについては、ちょっと自信が持てないが、殺されてしまっては元も子もない。
 しかし武之介は、逃げる事さえかなわなかったのだ。
 想像以上の素早さで、浪人達が、間合いを詰めてきたからだ。
「おあいさん、逃げてください。早く!」
 師匠と違って俺は、決してこんな事がしたいわけじゃ、ないのに!
 武之介は、まだ刀に手もかけてはいなかった。その余裕がなかったわけでは、ない。
 刀は、軽々しく抜くものではないと、子どもの頃から教えられて育った。
 武之介の先祖の、そのまた先祖あたりが、遠い昔、些細なことから斬り合いをやらかして、切腹させられたとかいうことで、それは、家訓のようになっていた。
 武之介が、剣術ではなく、いまどき流行らぬ杖術をたしなむようになったのには、そんな事情もあったのだ。
 仕掛けてきたのは、半兵衛の竹光を叩き斬った、鋭い居合いを遣う浪人ではなかった。
 大上段に振りかぶった刀の切っ先が、微かに震えて定まらない。そやつの腕の未熟さを、露呈していた。
 大上段は、威力は大きいが、その分、生半(なまなか)な者が使いこなせる構えではないのだ。
(これは、躱せる……)
 武之介は、目は後ろの二人に向けたまま、体を開いてその斬撃を躱した。
 むろん、紙一重で躱すような技も度胸もなかったし、夜道で足場も悪かったせいもあり、武之介は、勢い余って道端の床店に突っ込んだ。
 床店というのは、朝、道端へ持ってきて商いをし、夕方にはまた持って帰るような店の事で、店舗はたいてい筵(むしろ)でできたような掘っ建て小屋だ。
 そんな貧弱な小屋だから、武之介が突っ込むと、手も無く壊れた。
 こういう所には、よく夜鷹が客を引っ張り込んでいたりするものなのだが、幸か不幸か、誰もいなかった。
 刀を大きく空振りして、たたらを踏んだ浪人は、しかし、すぐに体勢を立て直して、武之介に向き直った。武之介も、ようやく刀に手をかけたけれど、この状態では、うまく抜くことができない。浪人は、にんまりとして、突きの構えを見せた。
 その時、武之介の手に触れたものがある。天秤棒のようなものらしかった。
 武之介は、夢中でそれをつかんで、浪人の突きを鋭くはじき返した。
 あっと小さな驚きの声が漏れて、刀は浪人の手を離れ、別の……おそらく首領格の浪人が、何か怒鳴った。
 武之介は、跳ねるように立ち上がった。

 首領格の浪人が、居合の構えを見せて、武之介の前に立ちはだかった。もう一人が、背後に回る。
 前門の虎、後門の狼。
 一人一人が相手なら、何とか逃げ切れないものでもないだろう。しかし、さっき刀を打ち飛ばした一人を差し引いても、一度に二人を相手にしなければならない。ことに、目の前の浪人の居合は、半兵衛をも脅かしたほどなのだ。
 こんな時こそ役に立つ、とっておきの奥義を武之介は、半兵衛に伝授されている。
 世の中の人は、それを、はったりと呼ぶようだ。
「生憎と、うちは杖術道場でして」
 武之介は、手のうちで天秤棒をくるくると二回ほど回して見せて、真っ直ぐに構えた。
 普段、稽古で使っている杖よりはだいぶ長く、重かったが、そんなことは毛ぶりも見せず、
「わたしには、刀よりもこちらのほうが、手に馴染むようです」
 にこりと笑って、余裕を見せる。端から見たら、引きつった笑いになっていたかも、知れない。だが、浪人は、気圧されたように一歩下がった。すかさず、武之介も、一歩前へ出る。
 ぴんと張り詰めた空気が、その場を支配する。
 浪人の方も、焦っていた。歩く後姿は確かに隙だらけで、組みし易しと見たのだが、今、必死の形相で対峙しているこの若造には、付け入る隙が見出せない。
 緊張の糸が切れかかった、まさにその時、
「火事だよっ」
 女の叫び声が聞こえた。
「火事だ、火事だ、火事ですよっ」
 桶か何かを叩きながら、あいが騒ぎ回っているのだった。
 人殺しだの、泥棒だのと言っても、とばっちりを恐れて住人は、かえって家の中に閉じこもってしまう。しかし、火事だと言えば、間違いなく誰もが外に飛び出してくるのだ。
「引けっ!」 
 言って浪人は、身をひるがえした。仲間の二人も、慌てて後を追う。
 武之介は、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
 総身から冷や汗が吹き出している。
「だいじょうぶかぇ? 武の旦那。送っていってやろうか?」
 それって、立場が逆じゃないか?
 あいに助け起こされながら、何か理不尽なものを感じる、武之介であった。

 あいを送り届け、更けてから、ようやく道場に帰り着いた武之介を、半兵衛と歌代は、大笑いして迎えた。
「おー、帰って来おったぞ」
「まあ、今日はてっきり、あちらにお泊りかと思っておりましたのに」
 この知り合いは、長い間娘と二人暮しをしていたのだが、一昨年に娘を嫁に出して、急に身辺が寂しくなった。それ以来、人恋しくなると、仮病を使って見舞いに来るように仕向け、無聊を慰めていたのだが、それがあまりに頻繁になったため、近頃では誰も相手にしなくなっていた。
 しかし、それでは可哀想だと半兵衛が、何も知らない武之介を、人身御供に祭り上げたのである。
「冗談じゃ、ありませんよ。おかげで、ひどい目に遭ったんですから!」
 武之介は膨れっ面をしたが、事情を知らない半兵衛は、また、げらげらと笑った。
 憮然としながら武之介は、事の顛末をどう語ってやろうかと、思案した。




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