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■小説 上原半兵衛剣客列伝 柳生十兵衛の巻

「師匠。ど、どうしたんですか、その目は……?!」
  夕刻、道場に帰ってきた上原半兵衛の目に、黒い眼帯をかけられているのを見ても、武之介は驚かなかった
  この師匠が誰かの真似をして奇怪な行動を取るのはいつものことで、最初はいちいち仰天していた武之介も、もうすっかり慣れた。
  半兵衛師匠が今度は一体誰の真似をしているのか、すぐにはぴんと来なかったので、ちょっと大袈裟に驚いて見せたまでのことである。
  果たして半兵衛は、武之介のこういった反応を期待していたのだろう。にんまりと笑って、声だけは重々しく、
「柳生十兵衛じゃ」
  と言った。

  柳生十兵衛といえば、将軍家剣術指南役の祖である柳生宗矩の三男で、大変な剣豪として知られている。
  三代将軍家光の小姓を勤めていたが、勘気をこうむって退き、それ以後は柳生の里に引き篭り日夜修行に明け暮れたと伝えられているが、また一説には、世間にはそう思わせておいて、実際には家光直々の命により公儀隠密として働いていたのだとも言われている。
  むろん、その活躍が後世に語り伝えられるようでは「隠密」の意味がないのであって、実際のところはよく分からない。
  しかし、いかな剣豪とはいえ、山奥でひたすら修行に励んでいるような、むさい男に半兵衛が憧れるわけもないので、おろらく、公儀隠密として派手に活躍することを夢想しているのに違いない。
「でも、まずいんじゃないですか。公儀隠密を騙ったりしちゃ」
「ぬわっはは、何を言う。隠密にはくノ一が付きもの。若くてピチピチとしたくノ一との絡みがあるに決まっておるわい!」
  近頃は上原半兵衛、武之介や歌代のみならず、作者までをも振り回すつもりらしい。

  さて、そうと決めれば半兵衛の行動は素早かった。
  このやる気、この行動力を、もっと道場経営に活かせないものかと武之介は、常々考えているのだが……
  ともかく半兵衛は、早速のように、不逞の浪人どもが頻繁に出入りしている怪しい大名家の下屋敷というのを嗅ぎ出してきた。
  もっとも、大名家の下屋敷など、どこでもわずかな留守居の侍がいるだけで実際にはほとんど無人であるから、柄の悪い中間たちが毎日のように賭場を開き、怪しいやつらが出入りしていると相場が決まっているので、別に珍しくも何ともない。
「いやっ、ここで密かに、天下転覆の相談が進められておるに違いないのじゃ。おそらく、水道に毒を流したり、風の強い日に、江戸のあちこちに火をかけて、その隙に乗じて千代田の御城へ攻め入ったりする算段に決まっておるわい」
「そんな、由比正雪じゃあるまいし……」
  今を去ること百数十年前、三代将軍家光が死去し、まだ幼い家綱が四代将軍に立った世情の乱れに乗じて、軍学者由比正雪が、御上に不満を抱く浪人たちを煽動し、国家転覆を謀った慶安事件のことは、武之介も聞いている。
  その情報をいち早く察知して未然に食い止めたのが、柳生十兵衛であったとか、なかったとか……
「で、どなたのお屋敷ですの?」
  歌代が聞いた。
「知れたこと。紀州候じゃ」
  と言ったから、武之介も慌てた。
  紀伊家と言えば、御三家の一つ。迂闊なことをしては、首が飛びかねない。
  しかし、由比正雪の背後に、当時、南海の竜と呼ばれ、幕府からも一目置かれていた紀州候の影があったらしいことは、非公式ながら広く知られていることだ。
  もう、何を言っても無駄だろう……

  さて、柳生十兵衛に扮した半兵衛が、勇躍、紀州家の下屋敷に乗り込んでから、三日が過ぎた。
「何も連絡がございませんけれど、伯父上様、ご無事でしょうかしらねえ」
  障子の桟を拭きながら、歌代が言った。
「大丈夫ですよ。今は昔と違って天下泰平。食い詰め浪人だって、わざわざ戦を起こしたりしようなんて、考えやしませんよ」
  床を拭きながら、武之介が答える。
  今日も道場に、稽古に訪れるものは一人もいない。
  二人は、いつも騒々しい半兵衛もおらず、平穏と言えば平穏、退屈と言えば退屈な、世帯じみた日々を送っていた。
  その時だ。
「たのもー。たのもー」
「あら、誰かしら」
  新しい入門者か何かだと思ったのだろうか。歌代は、姉さんかぶりを外しながら、あたふたと走り出す。途中で何かにつまずいたのだろう。派手な音を立てるのを顔をしかめて聞きながら、武之介も、歌代が放り投げた雑巾を拾い、後を追った。
「誰かいねーのかぁ?! 真っ昼間から、門を閉め切っちまってよう」
「あら、まあ、ごめんなさいね」
  歌代が、慌てて門を開く。
  誰もやってこないのも当然だった。門を閉め切っているのだから、たとえ門弟が稽古に来たとしたって、休みかと引き返しただろう。半兵衛とはいえ、道場主のいない道場と言うのは、ダメなものだ。
  ところで、訪ねて来たのは門弟ではなかった。
  やや崩れた遊び人風の男で、入門志願者とも思えなかった。
「柳生十兵衛とか言う片目の侍ぇが、これをここに届けてくれってよ」
  何やら文のようなものを差し出す。
「こ、この下手すぎて読めない字はっ!」
「伯父上様の字に間違いございませんわ」
「……で、なんて書いてあるんです?」
「さあ……」
  二人は、暗号解読に励んだ。
「おーい、てめえら何か忘れちゃいねーか?」
「あら、まだいらっしゃったのですか」
  のほほんと歌代が言う。
「馬鹿野郎、ガキの使いじゃねぇんだ」
  むくれたところを見ると、半兵衛は、文の使いを頼む金さえ所持していなかったのだろうか。あるいは、出し惜しんだだけかもしれないが。
  慌てていくらか包んで渡すと、額が少なかったかして男は軽く舌打ちしたが、特に何を言うでもなく去っていった。
  師匠なんぞに体よく使われているくらいだから、案外気のいい男なのだろうと武之介は思った。
「武之介さん。これは『た』とは読めません?」
  唐突に、歌代が言った。
「えっ、どれどれ」
  武之介も覗き込む。
  往来の真中で、頭を寄せ合って手紙の謎解きをしているというのも、おかしなものだ。
「なるほど……でも、一文字だけでは……いや、待ってください。これは『す』と読めます」
「本当ですわ!」
  子どものように手を打って喜んでいた歌代の顔が、急にこわばった。
「『た』『す』、そして……これが『け』。『助けて』と書いてあるのですわ!」
「まさか!」
  しかし、歌代の指を追っていくと、確かにその四文字が浮かび上がっているようにも見えるのだ。
「大変だ。だから言わないこっちゃない。ともかく、助けに行かなくては!」
「わたくしも、参りますわ!」
  何の脈絡もなく、たまたま目に留まった文字を四つ、拾い読みしたに過ぎないという事実に、二人は全く気づいていないのだった。

  半兵衛の身に、一体何が降りかかったというのか?
  暗号めいた四文字からは、想像もつかない。
「だけど、あの師匠のことだからなあ」
  往年の剣豪、名人に憧れるだけならまだしも、すっかりその人物になりきったつもりで、やたらと危ないことに首を突っ込みたがるのだから、何事も起こらないほうがむしろどうかしているのだ。
  暗澹たる気持ちに捕われながらも武之介は、道場に取って返して使い慣れた杖(じょう)の一本を引っつかんだ。いざという時、武之介の剣の腕前ではいささか心もとないが、杖術ならば……自信があるとは言いかねる。それでも、無いよりはましだ。
「武之介さん。そんな格好で行くおつもりですの?」
  そのまますっ飛んで行きかけた武之介を、歌代の声が追いかけてきた。
「えぇっ?」
  確かに、杖を持って行かなければならないほどのことがあるとするならば、下に鎖帷子を着し、上は木綿の黒紋付を白布できりりと襷がけ。袴の股立ちを取り、足袋の上に草鞋をはいて、頭にはこれも白布の後ろ鉢巻……くらいの準備をするのが、武士としての心得だろうか。とんだ荒木又右衛門(*1)の仇討だ。
  しかし、歌代はまったく別のことを考えていたらしい。
「伯父上様は公儀隠密のつもりでお出かけになったのですもの。わたくしたちも変装しなくては」
「は?」
「じゃんっ♪」
  武之介は絶句した。
  喜色満面で登場した歌代の姿は、頭のてっぺんからつま先まで、鳥追いのそれだった。
「う、う、歌代さんっ。その格好は?!」
「三味線くらいはわたくしも、女子のたしなみとして習ったのですわ。何しろ伯父上様があんなふうですから、いよいよ生活に困ったときにはこれでお足を稼ごうと思って、鳥追いの衣装も用意しておいたのですよ。ああ、こんなところで役に立つ日が来ようとは♪」
  武家の娘のたしなみならば、三味線よりは琴だろうなどという突っ込みは、一瞬頭の隅を掠めただけで消え去って、武之介は酸欠した金魚のように口をぱくぱくさせるばかりである。
「さ、早く武之介さんも、何かに変装なさいませ。こうしている間にも伯父上様の身に何が降りかかっているやら、知れませんもの」
  上原家の血の恐ろしさは、武之介の想像をはるかに上回っていたようである……

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(*1)荒木又右衛門
  講談では有名なヒーローで、柳生十兵衛に柳生流を学び、後に三十六人斬りの仇討をしたとされている。
  一応実在の人物だが、斬ったのはせいぜい一人か二人。十兵衛よりずっと年上で、柳生流を学んだというのも真っ赤な嘘らしい……




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