◆お芝居情報◆

【放送日】1999/03/11  【お芝居】俺のふり見て、ふり見直せ

●杉浦日向子のおもしろ講座●
江戸風俗研究家 杉浦日向子
補足 長尾武之介



◆本日の間違い点◆

●気の弱い棟梁という設定
当時の職人衆の間では、大工の棟梁と鳶の頭が最も頼りがいのある男性として慕われておりました。
それゆえ、人望がなくては棟梁にはなれませんでした。
いつも、もめ事や喧嘩の仲裁に体を張ってくれる人なので、気が弱いとなると
「腕は良いのだけれども、気が弱いので棟梁になれなかった。」
という事になってしまうそうです。
(今回の徳次さんのような人の場合)

今回のような設定の棟梁はとてもめずらしかったということになりますね。



●大江戸神田事情●

■職人が多かった神田■
神田は、大変腕の良い職人衆が集まっていまいした。
江戸城を建て上げる時に家康が、神田に腕の良い職人だけをあつめて町を造ってしまったのだそうです。

幕府が開かれた際に、全国から集められた職人衆の移住区を神田に定めた。


神田には、たくさんのいろんな職種の人が住んでいました。
日本橋の北の方を[「日本橋北」といって、大きな大店・商店が並んでおります。
今川橋よりも北が神田と呼ばれます。

「今川橋」
新版 江戸名所図会(上巻)』より
(鈴木 棠三・朝倉 治彦校註、角川書店、p92-93、S50/1/10)

今川橋は、商人地と職人の町を隔てている橋です。
両側に瀬戸物屋がたいへん多くありまして、水瓶、七輪、すり鉢などいろいろな瀬戸物が置いております。
この橋を境にしていたと考える方が良いとのことです。
(図で言いますと、右上が商人地左下が職人地となっております。)

神田に「縦大工町」、「横大工町」という町がありまして、大工がこのあたりにたくさん住んでいました。
この一帯の職人衆は、江戸城の御用達が多数住まっているのでエリート集団です。
職人だったら、このあたりに住みたいと思っていたくらいだったそうです。

左官屋は、白壁町に住んでおりました。
この白壁町には、平賀源内も一時、住んでいたということで有名です。
平賀源内(ひらがげんない)(1728~1779)
本草学、戯作などあらゆる分野で才能を発揮。
エレキテルの作成で有名。

ちょっとおもしろい所で、神田の地図の中に「千葉周作」という名前の所があります。
この名前にピンッと来た方、けっこういらっしゃるのではないでしょうか?
幕末の剣客で、お玉ヶ池の所に道場がありました。
千葉周作(ちばしゅうさく)(1794~1855)
幕末の剣客。
お玉ヶ池の千葉道場(玄武館)は江戸三大道場の一つ。

~町(ちょう)~町(まち)とありますが、この分け方には厳密な区分けはありません。
ただ傾向として、「小川町」、「麹町」など「まち」と読んだ場合は武家地が非常に多くあります。
「須田町」「白壁町」と「ちょう」と読む場合は町人地が非常に多かったそうです。
例外として「番町」は武家地で、神田に「つかさ町」という町がありまして、これは町人地でした。

■様々な神田名物■

「鎌倉町豊島屋酒店 白酒を商う図」
新版 江戸名所図会(上巻)』より
(鈴木 棠三・朝倉 治彦校註、角川書店、p98-99、S50/1/10)

鎌倉町です。
ここは江戸城を建てるときに建築資材を荷揚げした所でした。
そこで働いていた人々が「鎌倉出身の人が多かった」のことです。

鎌倉町の名物として「豊島屋」という酒問屋がありました。
二月の末に、雛祭り用の白酒を一斉に未明から売り出します。
絵を見ても分かるように、大変人が群集して、半日で完売してしまうそうです。
「山は富士、白酒は豊島屋」と言われていました。
たくさん積んである樽は売る用の樽で、これに新しい白酒をつめてもらえます。

この日に限って、やぐらを組みます。
その上に鳶の衆と医者がつめております。
つまり、ごったがえして
「けが人が出たらすぐに手当をする」
ということでした。


「酒醤油相休申也(さけしょうゆあいやすみそうろうや)
とありますが、これは
「この日は白酒しか売らない」
という事を意味しました。
しかも、この日は現金の取り扱いはしません。
先に売っておいた切手で交換していくということになっていました。

江戸名物の一つです。



■様々な神田名物(2)■
他の神田名物というと「鰻(うなぎ)が有名でした。
神田川周辺で大変とれまして、水道橋のといの中にもたまに鰻が交じっていたそうです。
水道橋のたもとにあった鰻屋も繁盛していたとのことです。
(繁盛したというのも、鰻の蒲焼きが誕生してからだと思いますが・・)


他には神田明神のお祭りがあります!
九月十五日に神田祭りがありまして、山王祭と一年交代でやる天下祭りです。
将軍様のご上覧があるという、江戸っ子というか神田っ子が命を掛けてやった祭りだそうです。
神田祭りと山王祭は天下祭りと呼ばれ、山車(だし)が城内に入ることを許された。

神田明神には平将門をまつっています。
平将門は、神田ッ子が大好きな人物だったそうです。
神田祭りと山王祭は天下祭りということで、御上の方からそれぞれ百両ずつお金をいただいていました。
しかし、実際は見事な山車をそろえるためには、数千両もかかったそうです。
百両もらっても到底たりませんね。
それゆえ、皆、身銭をきって祭りを行っていたそうです。
まさに江戸っ子らしいですね。
さぞかし、ここぞとばかりに競い合ったのでしょう。(^o^)


「神田」という名の由来ですが、神田は伊勢の神宮へのお米を奉納する為の田圃でした。
そこから「神の田圃」というわけで、「神田」と言うようになったそうです。
その田圃を埋めて、町人地にしていきました。

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