お芝居の最後に、三右衛門さんが「俺は医者だ!」と公言していましたが・・・
当時の医者は、
そういった自己申告制でなれる職業でした。
テストや免許などといったものはありませんので、
「俺は医者だ!」
といった日から、医者になれるのです。
ただし、本当に勉強して医学を修めたお医者さんもかなりいたことは確かです。
もちろん、藪医者も中にはいたということなんですね。
そういった医者の中でも、次に紹介する
「緒方洪庵」という方は、名医ともてはやされた人物でした。

「緒方洪庵(1810~1863)」 緒方家 所蔵
『
洪庵のくすり箱』より
(米田 該典・著、大阪大学出版会、p5、2001/1/31初版第1刷発行)
この人は緒方洪庵
(おがたこうあん)という方です。
幕末に
適塾(てきじゅく)という私塾を開いて、たくさんの門下生を世に輩出しておりました。
その中には橋本左内、福沢諭吉、大村益次郎などの人達も含まれています。
約二十五年間の3000人の門下生が全国から集まったそうです。
かなりの規模を誇る私塾を開いた洪庵先生ですが、彼自身は
一介の町医者でした。
この方を中心に、塾生達が全国にちらばったことによって、牛痘の普及につながったそうです。
ここの適塾の教育方法は
とても厳しかったそうです。
二階に三十二畳ほどの大部屋がありまして、そこに常時三十人内外の塾生が寝起きしてました。
スペース的に言うと、一人約一畳ですよ!?(゚〇゚;)
そこに机と自分の持ち物を置くことになります。
そうなると、もう着の身着のまま寝たり起きたりして、起きてる時には辞書をひいたり、本を読んだりし、疲れ果てたら机に突っ伏して眠るということで、布団で眠るというのは一人もいないというぐらいでした。
食事をするにも立ったまんま、簡単な質素なおかずと一緒におひつからもったご飯を食べていたそうです。
辞書なども、この時代には何冊もあるものじゃないですから、奪い合いになったほどとか。
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塾生は語学・医学のほか自然科学など最新の蘭学全般の習得につとめた。
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そんな状況の中、月に五、六回もテストがありまして、そのテストで
三ヶ月連続で主席を取りますと、上の級に進めるという九段階のクラスに分けられていました。
(さ、三ヶ月連続っ!!!す、すごい・・(゚〇゚;) )
本当に大変なので、命がけで勉強しないと洪庵の塾は卒業できないということでした。
この一介の町医者である洪庵先生が、その実力を買われまして、将軍に呼ばれて奥医師まで登り詰めることになります。
洪庵先生は町医者で終えたかったのです。
ですが、将軍の命ということで逆らうことはできなかったのでしょう。
奥医師に上がり、十人の家来を持たされます。
けれども、余程ストレスがつもったのでしょうか。
その十ヶ月後に亡くなっております。
享年は数え年で五十四歳。(絵の肖像画は五十三歳の晩年の頃のです。)
彼がもっと長生きしていれば、江戸における医学の発展に、さぞや貢献されたでしょうね。
■緒方洪庵について■
文化七年~文久三年(1810~1863)
幕末における日本の蘭医学者の第一人者。
備中足守藩(現在:岡山)出身。
十六歳の時に父の転勤(足守藩大坂蔵屋敷留守居役)に伴い、大阪へ。
天保七年(1836)に蘭学を学ぶために長崎へ遊学し、この頃から「緒方洪庵」と名乗る。
帰阪後、天保九年(1838)瓦町で医業を開業し、同時に「適々斉塾(適塾)」を開く。
(後にこの適塾は過書町に町家を購入して移転)
文久二年(1862)幕府の要望により江戸幕府奥医師に。
(西洋医学所頭取をも兼任)
わずか十ヶ月後の文久三年(1863)6月10日突然多量の喀血により急死。(享年54歳)
◆武之介コメント◆
適塾を開いてから、幕府奥医師として召されるまでの約二十年間。
日本最初の病理学書「病学通論」を書いたり、道修町に除痘館を設けて種痘事業の発展に尽くすなど・・・
その業績は、今現在においても多くの人にたたえられています。
彼の偉業を受け継いだ人々がのちの近代日本に多大な影響を与えたことは間違いないでしょう。
なお、洪庵先生が開いた「適塾」は、当時そのままの姿を現代でも見ることができます。
機会があったら、ぜひ見てみたいですね。
なお、この適塾の光景については、福沢諭吉の回顧録である
「福翁自伝」
に詳しく掲載されております。
興味のある方はぜひ!!
(福翁自伝の武之介感想です)
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